本日のポン助は
午前中部活で
夜は地元の花火大会の為
学習時間は
午後から夕方までに終わらせていた。
花火大会は
港で開催されるが
港内は飲食禁止となり
コロナ対策で鑑賞のみ
田舎で規模の小さな物だが
近隣の町からも
かなりの車が流れて来ていた。
花火大会は
毎回妹一家と一緒に
港が一望できる浜辺で鑑賞している。
町の浜通りは
今では海岸段丘上部を通行する
国道から港への抜け道で
海を眺めながらの
快適なシーサイドロードだ。
しかし
昭和50年代前半までは
浜通りの集落の端の家までしか
北に向かう道が無かった。
その海沿いの集落に
私の父方の祖父母の家があり
私が幼い頃まで同居していた。
スクールバスに乗車するには
丘の上の国道のバス停まで
数十メートル登って行かなければならず
帰りも勿論
同じ道を下って帰宅していた。
その断崖絶壁を
母に手を引かれて
毎日上り下る道中は
あまりの恐怖だったので
今でもはっきりと記憶に残って居る。
海岸段丘を1段分登ると
今では廃線となったが
JR(旧国鉄)の線路があり
線路伝いに数百メートル歩くと
線路の上を跨ぐ国道の
鉄橋の真下に出る。
そこから更に海岸段丘の
断崖絶壁を数十メートル登ると
ようやく国道に出る。
その道程に
階段は一段も無く
浜通りの集落の人々が
長年歩きながら作られた
踏み分け道のみ。
帰りにスクールバスから
予定時間より早く降ろされた時には
一人で降りられないので
国道の鉄橋の上から
集落を見下ろして
母が登って迎えに来るのを
心細く待っていた。
雨が降れば道はぬかるみ
泥で滑り
親子で数メートル程度
滑り落ちた事もあった。
強風や突風で
一瞬体が宙に浮き
母にしがみつきながら
崖を登った事もあった。
そして1番恐ろしかったのは
線路を歩いている時に
電車が来た時だった。
手前の駅を出発する汽笛が聞こえたら
逃げ場の無い狭い線路内から
母と手を繋いで
退避出来る広い草むらまで
猛ダッシュしていた。
まるで毎日がサバイバル状態。
足腰はかなり鍛えられ
幼い頃の私は足が速かった。
しかし
喘息持ちでもあった為
何度も発作を起こし
隣町の小児科に通院していた。
3〜4歳位になると
父と祖父が仕事に出た後
車の免許の無い母と祖母は
具合が悪く歩けない私を抱えて
崖の上のバス停までは登れず
タクシーに頼るしか無かった。
そんな不便な生活もあり
5歳になる頃
祖父母の家を出て
家族で隣町に引っ越した。
その数年後
浜通りから崖の上の国道までの
道路が切り拓かれた。
毎年夏休みには
妹と二人で
祖父母の家に長期滞在して
毎日海で遊んでいた。
あれから数十年後
そんな私達の夏の遊び場で
お互いの家族と共に過ごす
楽しいひと時。
祖父母が亡き後の家は
私と主人が譲り受け
ポン助が2年生になるまで住んでいた。
その後老朽化が顕著になり
引っ越しを検討していた時に
同じ町内の山奥にあった
主人の親戚の家を譲り受けた。
そして現在に至る。
夕方になり
港に向かう車が増えて来た。
従姉弟達や幼なじみ等
皆集まり夕陽を満喫。
日没後の
マジックアワーも綺麗だった。
そして花火大会が始まると
皆夜空に夢中だった。
「あれはイチゴかな」
「あれは梨だ!」
等と
花火で表現された果物を当てたり
自分のスマホで撮影したりと
楽しい時間を過ごした。
ポン助も
本当に楽しそうな笑顔で
花火を見ていた。
今日ここで見た花火も
きっと子供達の思い出となり
また数十年後同じ様に
ポン助の子供も
甥や姪の子供達と共に
楽しい時間を過ごせたらいいな。
なんて
ノンアル片手に
幼い頃
妹がテトラポットの隙間に落ちて
大人にバレない様に
浮き輪のロープに流木を結んで
幼馴染と私で
必死に引き上げた時の話をして
妹と大爆笑していた。
そんな母達姉妹の武勇伝は
ポン助達には秘密のお話(笑)
さあ夏本番。
1度くらい
海で思い切り遊ぼうかな〜。